日本史の中でも異彩を放つサムライ「弥助」。彼の物語は、イタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に、東アフリカ(現在のモザンビーク付近)から来日したことに始まります。もともと奴隷として生きていた弥助ですが、ムスリムと戦うために兵士としての訓練を受けた後、インドでの戦争を経て、イエズス会に従者兼護衛として雇われました。そしてついに信長と出会い、日本で新たな運命を切り拓くことになります。
異国からの来訪者、信長と対面
1581年、ヴァリニャーノが弥助を連れて信長に謁見した時のこと。信長公記には「黒坊主参り候」とあるように、異国から来た大柄で筋骨隆々の弥助に信長も驚きました。日本にはなかったその見た目に、京の人々も大騒ぎ。目撃者の話によれば、「牛のように黒い肌」とあり、興味津々の信長はさっそく彼を自らの侍に引き立てたとされています。信長と弥助が一緒に過ごした期間はわずか1年という短い期間でしたが、信長は弥助と話すのが大好きだったとか。きっとインドやアフリカ、その他の世界のことが聞けて信長は楽しかったのでしょうね。
本能寺の変:弥助、最後の忠誠
信長との生活がわずか1年余りで終わることになってしまったのが、本能寺の変です。このとき弥助は本能寺に宿泊しており、明智光秀軍の襲撃に信長を守るべく立ち上がりました。その後、信長の後継である信忠を助けるために二条新御所まで駆けつけましたが、壮絶な戦いの末に投降します。
明智光秀は彼を「黒奴」と呼び、「日本人ではないから殺す必要はない」として命を奪わず、南蛮寺(キリスト教の聖堂)に送りました。光秀が弥助に情けをかけたという見方もあれば、当時の差別感情からくる判断とする説もあります。
弥助のその後:伝説と謎
本能寺の変以後、南蛮寺に預けられた弥助のその後はよくわかっていません。「牢人」として生きたのか、宣教師の護衛に戻ったのか、あるいは海賊に転身したのか、諸説あります。愛知県瀬戸市にある「西山自然歴史博物館」ではデスマスクが展示されていますが、弥助が持ち出した信長の首から作られたものという言い伝えが残っているそうです。
一説には彼が再び故郷へ戻ったとも言われますが、真相は闇の中です。弥助はその生涯を通して戦い、異国の地で信長のサムライとして名を馳せましたが、彼の物語の後半部分は今も謎に包まれています。
弥助の人生を想像するに、奴隷で生まれ、戦士として訓練され、最終的には宣教師の護衛として日本にわたり、日本の歴史上の大事件である本能寺の変に居合わせたことを考えると、本当に波乱万丈の人生だったと考えさせられます。信長死後、どのような人生を送ったのか、興味が尽きません。